海外企業の日本第一号社員経験者に光を当てる連載「『日本第一号』たちの未来志向」。第8回の井戸義経さんは、中国電子機器メーカー・Anker(アンカー)の日本第一号だ。当初、アンカーとは全くつながりがなかったが、自らのビジネスプランを売り込むためのコールドコールが同社の日本事業立ち上げに結び付いたという。その裏側には、金融業界に身を置きながらも、燃やし続けた「ものづくり」への執念があった。
カントリーマネージャーという“職業”の認知が徐々に進む中、彼のように自ら海外企業にアプローチする手法を採る人も増えるかもしれない。【丸山紀一朗】
1. 「いつかは実業に」。金融業界からの最適な行き方を模索していた
2. 海外ブランドと日本をつなぐ「ミニ商社」構想。複数の企業に自らアプローチ
3. 「断られても失うものはない」。スタートは公開窓口へのメール
4. 専門外のことも何でもやる。会社の成長と自分の変化を楽しめる人が向いている
「いつかは実業に」。金融業界からの最適な行き方を模索していた
――前職までの約10年間は金融の世界にいたとのこと。アンカーというメーカーの日本第一号というキャリアは、そこからは遠く感じます。井戸:私の中ではつながっているので、順を追って話しますね。
原点は大学のときです。「ものづくり経営学」で有名な藤本隆宏先生のゼミに入りました。ものづくりを行う会社について、どのように組織を構築し、どういった戦略で営んでいくべきかという経営学を学んでいました。そこから製造業に対する思いが強くあったのです。
――周囲の学生は製造業に就職した人が多かったですか。
井戸:はい、先輩や友人らの多くはトヨタやパナソニックといった日本を代表するものづくり企業に就職しました。私もその流れに乗り、またゼミでの学習内容を生かせるような職場に行くためにも、就職活動の開始当初はメーカーを志望していました。
しかし就活を続ける中で、メーカーで一人前になるには10年くらいかかるということが分かってきました。1つの企業に10年間コミットするというのは当時の私にはリスクに思えたのです。それよりも若いうちは忙しくてもつらくてもいいので、「促成栽培」のように早く経験を積み、その後のキャリアの選択肢を広げたいと感じました。
――そこで仕事選びの方向転換をしたのですね。
井戸:はい。コンサルティングファームも検討はしたのですが、第三者としてクライアントにアドバイスするよりは、企業の資金調達などにコミットする証券会社の仕事に魅力を感じました。
また日系の金融機関も調べたのですが、外資系のほうが「圧縮したキャリア」をおくることができると考えました。所属していた剣道部にリクルーティングに来てくれた外資系金融の中の一つがGSで、運よく内定をもらえて入社しました。
――剣道部の友人などは外資金融に行った人も多かったのですか。
井戸:いえ、ほとんどいませんでした。当時は先輩のつながりで総合商社やメガバンクに引っ張られるという慣習が強かったのです。私はその自然の流れには乗らず、何が自分のキャリアにとって一番いいだろうとゼロから考え、その結果として外資系金融に進もうと思いました。
ただ、ものづくりにかかわりたいという思いは常にありました。入社前から分かっていたことではあるのですが、金融業界というのは仕組み上、あくまでもアウトサイダーであり、自分たちが主役ではありません。そう感じるたびに「いつかは実業のほうに行きたい」という気持ちになり、その最適な行き方を探していました。
――金融の世界に居続けたものの、模索していたのですね。
井戸:はい、金融の中でも自分で意思決定できる立場に意識的に近づけていきました。
GSでは純然たるアドバイザリー業務でしたが、メリルリンチでは自社の資金から投資する部署でした。その後のTPGキャピタルでは、資金自体はお客様からお預かりしたお金でしたが、それをどこに投資するのかを決め、投資先を実際に変革していく仕事でした。このように、金融ではありながらも事業に対するコミット度合いが高くなっていくようなキャリアを選びました。
しかし、それでもなお「自分はプレーヤーになれていない」という気持ちがあったのです。ではどうしようかと、30歳前後で考えていました。
海外ブランドと日本をつなぐ「ミニ商社」構想。複数の企業に自らアプローチ
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